おさしづ配信

自由は日々にある

おさしづ配信

自由は日々にある。何故と言う。日々に皆心の理にある。雨止めるやない。雨あたゑと言う。(明治26年8月4日)

親神様の絶え間ないおはたらきがあるなればこそ、私たちは、こうして日々を元気に過ごさせていただいている。
そうした中でも、特別な自由なるおはたらきを頂戴したいと願うことがある。「苦しいときの神頼み」という言葉に示されるように、人事を尽くしても問題がどうにもならないときに、神の格別な自由のおはたらきを願うのである。
けれども親神様は、自由のはたらきというものは、実は日々の心の理にこそある、といわれる。つまり日々は、それぞれの心がはたらいている、まさにその当の場だからである。
話は少し難しい言い回しになったが、簡単に言えば、日々の心のはたらきが大事だということである。どんなに難しい、困難な問題であっても、いや、そうであればあるほど、そのときの心はもちろんであるが、それまでの日々の心の理の中に、ご守護を頂く元があるということである。
このお言葉は、日照りが続いて雨乞いを願われたときのものである。親神様は雨を止めているのではなく、雨の与えを頂く理が欠けているのだ、と仰せられている。
いかに日々が大切か。 長生きをするといっても、それは一遍に齢をとるわけでなく、年々、月々、日々の積み重ねがあるから、高齢をむかえるのである。しかも、日々をどう生きたかによって、成ってくる姿は異なる。信仰もまさしくそうであって、それは今生だけでなく、来生の生きざまにも繋がっていくことになる。その意味で、日々の理というものを疎かにしてはならない。
教会への日参をお勧めする所以でもある。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)