おさしづ配信

外の理混ぜてはならん

おさしづ配信

「道の外の理混ぜてはならん。混ぜた理は、水に泥を入れたようなもの。濁りは飲む事出けん。…人の顔を見て義理でした事は、折角しながら喜ぶ者もあれば、喜ばん者もある。水に塵混ぜたようなもの。飲ますこと出けん。」(明治33・10・7)

「外の理」とは、お道以外の理、すなわち一般社会の考え方や常識といったものでしょう。それを混ぜるのは、水に泥を入れたようなものだと言われます。
爪のあかほどのわずかな泥でも、それが清水に入れば神様にお供えできませんし、たとえ泥が下に沈んで元の清水のように澄んだとしても、泥を入れるところを見たら飲む気になれません。
その爪のあかほどの世間並みの考え方が、お道の考え方に混じっても、神様にお受け取りいただくことができなくなります。ですから、常にお道の心で通るよう、人を見たらお道の話をし、口を開いたらお道の言葉が出るように心がけるとよいでしょう。
それでは窮屈だ、と思う人があるかもしれません。けれども、お道は天然自然の道であり、本当の人間の生き方を教えられるのですから、お道を窮屈に思う人ほど勝手な心が強いということになります。むしろ、窮屈さを乗り越えたその先に、自由自在の境地があるのです。
教祖が「月日のやしろ」と定まられる時、親神様は、「今は種々と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に」と命ずるように家人に諭されました。お道は、そうした長い時間をかけて、付けられた道です。だから、まず信じることがたいへん重要です。二十年三十年経ってから信仰しよう、では遅いのです。信じ切って、もたれ切って、立っても座っても、寝ても覚めても、お道の精神でやり抜くことです。お道の教えが、夢にまで出てくるほどに心に浸透すれば、運命も変わります。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)