おさしづ配信

いかなるいんねんも尽くし運ぶ理によって果たす

おさしづ配信

「為すいんねんという。生まれ更わり出更わりの理、いんねんという。成ろうと思っても成らん。しょまいと思うても成りて来る。これ一ついんねんの理を聞き分け。なれど、いんねんと言うて了えば、それまで。いかなるいんねんも尽くし運ぶ理によって果たす、切る、という理から思やんもせねばならん。一代ではない程に。末代という理なら、大きい理である程にある程に。」(明治30・10・5)

どんな悪いいんねんも尽くし運ぶ理によって、果たす、切る、と言われます。いんねんの切り替えは、おたすけとたんのうと尽くし運びだ、と言われた先生がいました。
自分のため、というわが身中心の行いは悪いいんねんとなるので、わが身を捨てて人のために尽くし運び、おたすけをさせていただき、人のこともわがこととして受け取って、たんのうさせていただくと、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と教えられるように、いんねんも切り替わってきます。
教会の月次祭の日に、義理の用件があって参拝できない、おつとめを勤められない、という場合でも、頭を下げて頼み、どうでもこうでもの精神で出かけてくることです。出にくいところ出てくると、たすけにくいところもたすけてあげようと、神様の働きが変わってくるものです。
愛町の初代会長様は、「月次祭の理は重いから、親が死んでも、遺骸を押し入れに一時安置しても、欠かさず出てくるんだよ」と言われました。会長様自身、かつて上級教会への参拝を、やむを得ず休んだことが二度ありましたが、その二度とも、家からボヤを出したのでした。それ以来、月次祭は欠かさず勤めるようにされたのでした。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)