神の守護も無きものかなあと、中にそういう事も思う者もある。皆これ大難小難救けたる。(明治34年11月21日)
自分に災難が降りかかってくると、ついつい、どうしてそうなるのか、ということを考える。それも、いい方向へ考えが進むのであれば問題はないが、ややもすると、信仰しているのに、これだけ一生懸命にやっているのになぜなのか。時には、神様のご守護はほんとうにあるのか、などと思ったり、言ったりすることもないとはいえない。
それに対して親神様は、どんな大難も小難も皆たすけているのである、といわれる。であるならば、どのようなことが起こってきても、まずお礼を申し上げることが第一となる。
他人から見れば、災難に遭ってお礼を言う人は、どこかいぶかしげなことであろう。もちろん本人にしても、人間的な感情からいえば、それは難しいことに違いない。病気になって、あるいは事情が起こって、なんでありがたいのや、と思うのがふつうである。それを喜びなさいといわれても、そう簡単に喜べない。それをありがたいと思えるには、その成ってきた事柄の因ってくるところを思案することである。
その場合、一つの角目は、情に流されていないかどうかを振り返ってみることであろう。「道に理は一つ。二つは無い」とも仰せになる。日々に歩む道中には、いろいろなことがある。それがために、情に流された、理にはずれた思案から、ものごとを進めていることが案外多い。
どんな中も、親神様のご守護あればこそ、日々が成り立ち、年限の理ができてくる。親神様の言葉一つに心を合わせ、皆揃って一日の日を楽しんで通ることである。「どんな災難も元知れてあれば安心のもの」といわれている。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)
