おさしづ配信

旬々の理を見て蒔けば

おさしづ配信

旬々の理を見て蒔けば皆実がのる。旬を過ぎて蒔けばあちらへ流れ、遅れてどんならん/\、とんとどんならん。(明治22年7月31日)

残暑厳しく真夏のような日差しが照りつけている。そんな中、ただいま野菜の植え付けに忙しい。夏野菜の植え付けは、少々時期が遅れても実がみのる。けれども、冬野菜の植え付け時期は、極めて短い。気がつけばもう遅い、ということになる。
とくにキャベツ、白菜、丸大根など、その短い旬を逃すと、植え付けてもほとんど充実した収穫は期待できない。一週間ほどの遅れが、三ヶ月以上の遅れとなる場合もある。いかに旬が大事であるか。
しかも、こうした世話取りを通して、なお実感することは、親神様のおはたらきである。考えてみれば、種を蒔き水をやる、肥料を与え雑草を抜く。いろいろな作業があるが、野菜が芽を出し育つという、そのこと自体に関しては、粘土をこねるようにはいかない。折々、旬々の親神様のおはたらきを頂く以外になす術はない。
「ちやつんであとかりとりてしもたならあといでるのハよふきづとめや」(二号3)と、おふでさきに記される。茶を摘んで刈り取るのは、人間の仕事である。そして、しばらくすると、刈り取った後に新芽が出てくる。これは、親神様のおはたらきである。いかにも人間がつくったように思っていても、このおはたらきを頂戴しなければ何もできるものではない。
こうしたことに限らず、親神様はいつも人間の身体、世界一切を支え、守護してくださっているが、そのおはたらきは、人間の目には直接見えない。それがふつうである。しかし、旬を得れば、親神様のおはたらきは目に見えて明らかになる。教祖年祭はたすかる旬である、といわれるのは、このことのゆえである。成ってきた姿に、親神様のおはたらきと思召を悟り取ることが肝心である。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)