おさしづ配信

身上あって楽しみ

おさしづ配信

「身上あちらこちらに事情身上あって道という。身上あって楽しみ、楽しみあって道と言う。」(明治31・8・29)

お道では病気のことを身上と言います。「身上・事情は道の花」と言われ、身上は避けて通るのでなく、楽しんで通るように教えられていますが、ここでは「事情身上あって道という」「身上あって楽しみ」と言われます。お道を通るには、どんなことがあっても楽しみを持っていかねばならないのですね。
病気になって、「かしもの・かりもの」の教えがよくわかり、前生いんねんや過去の心得違いも悟らせていただけます。さらに、将来、どうすればいいのかも教えていただけます。だから、病気になってよかった、ありがたい、と心から感謝できると、もう病気から卒業させていただけるものです。

今日はもう一つのおさしづを紹介します。

「十のものなら七つまで捨てて了うがよい。心に掛けて居れば切りが無い。…いついつ心掛けて居ては楽しみ薄い。付けた理はいつになりても取りやせん、消やせん。」(明治33・8・29)

あることをいつまでも心に掛けていると、それが重荷になり、難儀大層になり、結局、神様に受け取っていただけなくなったり、病気になったりします。尽くしただけでは神様が受け取って下さっているのですから、心を軽くして、もたれて進ませていただく方がいいですね。
「十のものなら七つまで捨てて了うがよい」と言われますが、捨てた分は神様引き受けて下さるものです。このおさしづを伺った山名大教会初代会長・諸井国三郎さんは、明治十六年に入信してから三年後に四女が出直した時は、道一条の真っただ中で最も困窮の道をたどっていたため、葬式すら満足にできず、さすがに心を倒しかけたといいます。そこで、おぢばに帰り、教祖にお伺いすると、
「さあさあ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』一八七「ぢば一つに」)
というお言葉を頂き、これで力づけられたのでした。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ-朝席のお話」、天理教道友社)