おさしづ配信

道の上の世界

おさしづ配信

道の上の世界という。世界道理も無けにゃならん。その理の成って来る元が無けにゃならん。その元を心に含んで、無けにやならんものは無けにゃならん/\。(明治33年3月30日)

このお言葉は、天理教校が設立され、その開校式執行の許しを願われたときのものである。当時「学者金持ち後回し。道に学問はいらん」という風潮が強いときに、初代真柱様の英断によって学校ができた。
「世界道理も無けにゃならん」ということは、教師養成の機関としての学校が必要であることをお認めになったことを指している。が、大事なことは次である。その理の成ってくる元がある、ということ。その元を心に含む、ということである。
日々の暮らしの中で、世上に合わせて通ることもままある。たとえば、会社に勤めている人が、教会の月次祭の日に会社を休もうと思っても、それは、たいへんなことに違いない。だから、月次祭に参拝できなくても、神様は一概にそのことを否定されるわけではない。けれども、会社に勤めるという、その元を考えて行動することである。健康ならばこそ会社に行ける。病気になれば会社へ行くに行けない。ここである。親神様のご守護あればこそ、なのである。これが元である。
この元を忘れると、会社に勤めているのだから、月次祭に参拝できないのは当たり前だ。その給料で暮らしを立てているのだから、休むわけにはいかない。なんなら、月次祭を日曜日にすればいいじゃないか、というような、本末転倒した考えが出てくる。これではお話にならない。
月次祭が終わっても、その日一日は月次祭の日である。ならば、所用を済ませてから参拝する心をもちたい。神の理を立てるとは、このことである。もちろん、所用を後回しにして、まず月次祭に、という心のほうが、理を立てきることになるのは、いうまでもない。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)