おさしづ配信

無理に来いとは言わん

おさしづ配信

ならん者に無理に来いとは言わん。来る者に来なとは言わん。…機嫌に向いたら行くは、機嫌に向かにゃ行かんは、こんな事では今日の日見えるか。…神が捨てるやない。何ぼ大切ない者でも、めん/\から捨てヽ掛かればどうもならん。何程繋ぎたいかて、真の心から事情の理切れたらどうもならん。(明治30年4月4日)

この道は心の道である。心一つがわがのもの、と仰せられる。この場合、使った心の理がわがのものなのであるから、心一つによって、どんな道も見えてくることになる。
親神様は、無理に来いとはいわれない。そこに心がなければ、どうしようもないからである。けれども、その日の機嫌にまかせて、今日は行こうか、明日はやめておこうか、というようなことではどうもならん、と仰せられる。
そんなことでは今日の結構な日が見えるものではない。どうでも結構という日が見えてくるように、道を通っていかなくてはならない、と仰せられるのである。
親神様は、何がなんでも子供である人間をたすけたいと思召しておられる。けれども、「何程繋ぎたい」という親神様の心を、切ってしまうようなことになれば、どうもこうもしようがない、といわれるのである。いくら心を定めても、そこに実行が伴わなければ、親神様の心を切ってしまうようなものである。
そこに、結構な日は見えてくるものではない。これは私の反省でもある。たすかる理がないとでもいえようか。実行がないということは、「めんから捨て、掛かればどうもならん」とまで仰せられていることに等しい。たすけるにたすけられんのである。
お互いに、少しでも心に思い浮かぶことを実行して、たすかる理を頂こう。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)