さあ/\今になって今の事を言うやない。所々には一つ/\の名を下ろし/\。さあ/\いつ/\までの事情、往還道を待ち兼ねる。何か一つの治め方、一つの事情、元一つの事情から始め掛ける。(明治22年4月18日)
親神様が話され、仰せくださることは、いまのことだけをおっしゃっているのではない。いわゆる小手先のような話ではない。元から先を見て、つまり人間がたすかっていく道筋を見極めながら、真のたすかりへと導いてくださる、そのうえからのお話である。とするならば、お道の話は、先を見据えて、しかも、ものごとの元、根本に立ち返って思案することが大事になってくる。
「所々には一つ/\の名を下ろし」とは、国々所々に名称の理が下ろしてある、との意で、いまでいうところの教会を指している。こうした教会は、願いをもって許され、設置されたものである。その教会は何のためにあるのか、ということになると、これはいうまでもない、おつとめを勤めるためである。そして、おやさまの教えを伝えていくためである。このことが教会の元である。
それは、明治二十年(一八八七年)、おやさまが現身をおかくしになる直前の神人問答の中に明らかである。人々は、官憲からの圧迫干渉をさけ、お急き込みくださるおつとめを勤修するには、教会の設置がどうしても必要であるとの思いから、おやさまにその設置の許しを願われたのである。
そのおつとめをもって世界たすけを進めるというのが、親神様の思いであった。おふでさきに急き込まれているのは、まさにこの点で、それを「往還道」といわれるのである。そこのところを思案の根本において、教会のあり方というものを考えていくことが大切である。「元一つの事情から始め掛ける」のである。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)
