おさしづ配信

親の理

おさしづ配信

さあ/\何がどうこれがどう、難儀さそう不自由さそうという理は無い。親という理に子という理、救けにゃならんが親の理。可愛い一条、それの身上に迫るというは、まあ一時心に何も掛けんよう。(明治23・8・7)

「親というのはこの場合、親神様のことでしょう。理の親はまたそうだと言ってよいでしょう。病気になると、それだけ心を奪われやすいのですが、病気の時はまず、親神様が何をたすけようとしてこうしてくださったのかを考えるべきなのでしょうね。
すべてはいんねんで成ってきます。心の種まきの結果、成ってきたことです。それと、親神様のたすけたい親心、この二つの接点で心の切り替えがなされたら、一夜の間にも変わることだってできるのです。過去の間違いに気づき、さんげする以上に、未来にどのようにたすかっていけばよいかを見つけるほうが、ずっと重要だということも知るべきです。
お詫びよりも喜びが大切です。親の心が分かったら、嬉しくありがたくなってきます。親の心は親の立場になって初めて分かります。親神様のたすけたい親心は、おたすけさせていただいてだんだん分かってきます。おたすけしないと、親神様の心どころか理の親の心さえ分からないでしょうね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)