おさしづ配信

楽しみの道

おさしづ配信

年限無くばあたゑと言えん。年々理によって理回さねばならん。積んだ理が光り、心が年限経てば、これだけ与えて貰うたという。年限通らにゃならん。…これから万事楽しめば、又楽しみの道がある。(明治32年8月21日)

信仰というものは年限が大切である、といわれる。それは一面、木にたとえて諭されている。すなわち、いくら立派な木を植えても、それ自身が水を吸わなければどうにもならず、いずれ枯れてしまうことになる。つまり、一つのものごとが成るためには、付け焼き刃ではならないということである。
オリンピックの競技を見ていると、陸上競技の百メートルなら十秒ほどで決着がつく。スキーのジャンプ競技などは、ほんの数秒である。その一瞬のために、何年もの時間がある。その時間は、単なる練習のためのものではなく、あくまで本番のためのものであるがゆえに、それを継続することができる。練習そのものは、苦しい、単調な時間であるに違いない。
信仰にもそうした面があるわけで、年限かけて通らせていただくことが重要であることを教示されるのである。
今日信仰させていただいたからといって、すぐに与えがあるわけではない。もちろん、それなりのことは見せていただくが、大事なのは日々積み重ねた理であって、それが年限とともに光り、大きな与えを頂戴できるのである。それがほんとうの与えである。それは誰のものでもなく、どこにもいかない。無理して得た与えは仮のものにすぎず、真に自己のものとはならないだろう。
年限を楽しんで通れば、楽しみの道が見えてくる。このお道を楽しんで通らせていただき、先の大きな与えを楽しもう。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)