おさしづ配信

通った中に道ある

おさしづ配信

通った中に道ある。真の心以て出来て来る。皆大抵やない。山坂をも道を付けたら楽々の道も運ばれるやろう。(明治26年12月16日)

道というものは、通るから道になる、道である、ということができる。人も通らなければ獣も通らない、ということになれば、それは単なる山であり、原である。決して道とはいわない。
けれども、いかに山である、原であるといっても、そこを誰かが通りかけて、その後を多くの人が歩けば、それは道になっていく。
その意味で、道は通るためにある。その道も、人の往来がなくなれば、また山や原にかえってしまう。
天理教の信者を、「お道の人」と言うことが多い。また私たちも、「お道では」というように表現する。
このことは、天理教の教えがもつ本質的な、しかも根本的な特徴を自ら表している。つまり、天理教は、単なる観念の遊戯にあらず、何よりも教えを実践することに重きをおく。
こういうことは、他の宗教には見られない。お道が「だめの教え」といわれる所以である。道を歩む中に、いかなる困難が前途に見えようとも、すでに、おやさまが先頭を切って歩んでくださっている。おやさまが道を付けてくださってある。
私たちは、その後をしっかり歩むだけでいいのだ。何も心配することはない。その道を歩む人たちが一人でも多ければ多いほど、道はなお大きく広がっていく。ならば、私たちは多くの人たちをこの道に案内し、共に歩むことが、おやさまの教えてくださった道を大きく輝かしていくことになる。通ってこそ道なのである。
道を歩むについて障害となるのは、銘々の、いらぬ先案じだけである。勇んで通ろう、この道を。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)