おさしづ配信

目の障り

おさしづ配信

明治三十二年の十二月二十九日は、「宮森ヒサ眼の障り願」に対するおさしづがありました。

さしづこうやけど、どうもなあ、と言うようでは、天の理に背く。教祖一つの理にも背く。(明治32・12・29)

吹けば飛ぶようなちょっとのほこりでも、長い間に積もれば病気になったりします。ですから“ナニ、そんなこと”と思うような場合であろうと、全き素直にならなければ、目の病のご守護は頂けないのだと思うべきですね。なにしろ天の理に背き、教祖の理にも背くのですから。
目は見るものでなく、映すものですね。あるがままに受け取って、映り返して見えるのですね。目の中のきれいな水がレンズ状になって、光を映して見えるのですね。
だから、自分の考えで見るのではないのです。自分の考えで受けてはいけないのです。全く白紙の心で、私をなくして、空っぽになって受けるなら、「こうやけど、どうもなあ」とはならないのです。
自分の考えで受けると、赤い眼鏡をかければ一切赤く見えるようなもので、現実とは違ってしまいます。映すことにはなりません。ばかになって、無条件で受ける心になってこそ、目のご守護を頂けます。目は水の理ですから、水は方円の器に添うように低い柔らかい性質ですので、例えだまされても結構ですと、信じ切れる、まかせ切れる心になることが必要です。
水は洗濯や掃除に使われて、汚くなると捨てられます。いわば使い捨てされます。それで結構というのが水の性質なのです。捨てられても、水そのものはやがて濾過され、蒸発して天に上り、また雨となって降ってきます。汚くなっても、水そのものの性質は変わらないのです。
目の病の人は、あせってはなりませんが、あきらめてもいけないのです。低い心になれば一切が喜べます。感謝できます。喜び勇むことができます。この明るく陽気に勇む心、これが一切のご守護の元になります。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)