さあ一代は一代の苦労を見よ。長々の苦労であった。二代は二代の苦労を見よ。三代はもう何にも難しい事は無いように成るで。なれど人間はどうもならん。その場の楽しみをして、人間というものはどうもならん。(明治22年3月2日)
道の初代というものは、ほんとうに艱難苦労の道を通っておられる。何もないところから道を付けるのであるから、それは楽々の道でないことは当然である。しかし、その道中を通っておられる心はというと、決して苦労だ、難儀だといって悩んでおられるわけではない。それは、おやさまのひながたの道あればこそである。
おやさまが、この世界たすけの道をお付けくだされたのであるが、その道は、ほんとうにご苦労の道であった。村人からの嘲笑、官憲からの圧迫干渉など。また、病をたすけていただいても、おやさまの話を聞き分ける人はほとんどなく、信者と呼ぶことができる人が現れるには、立教以来二十数年を要している。
たすけずにはおれない親の心をもって、長の年限、導いてくだされたのである。布教師の苦労というものは、それから見れば微々たるものにすぎないが、やはり、やむにやまれん心で初代はお通りくだされたのであろう。
それに続く二代も、それなりの苦労はある。けれども、三代になれば、難しいことはなくなる、と仰せられる。
難しいことがなくなれば、人間というものは、つい楽しみを求めるが、それでは、その場は通れても、どうもならんと仰せになる。二代は二代、三代は三代、それぞれも、こうのうの理を積んでこそ、その代にふさわしい与えを頂くことができるのである。「何にもこうのう無くしては、どうもならん事に成りてはどうもならん」とお言葉は続く。先人の苦労の上にあぐらをかかず、心したいものである。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)
