おさしづ配信

三年五年使う道具でも、生涯に一度使う道具でも

おさしづ配信

三年五年使う道具でも、生涯に一度使う道具でも、無けねばならん。…この理をよう聞いて、内々の処ほんに成程と、これが理やと、その心を定めてくれねばならん。(明治21・9・2)

二代真柱様はおたすけ人を、神様の道具衆と呼ばれました。教祖が世界普請の用材となる人々を、ようぼく(用木)と呼ばれたのと似ています。道具は、使う人の心のままに使われます。道具が使う人の意志に添わずに動き出すということはありません。
だから、人間思案を捨てて、神様の道具衆として神様の思召のままに、使いやすい道具のように働くなら、道具衆の名に恥じぬことになります。自主的に親神様のお心に成り切って、たすけ一条のご用の上に私心を捨てて没頭できてこそ、たすけ人衆の一人に加わることができるでしょう。
その道具衆の中には、毎日役に立つ人もいれば、三年五年しか使えぬ人もいるし、生涯に一度だけ役を果たして終わる人もいるかもしれません。それなりの役割を天より授かってあるのであれば、それでよいのですね。
毎日酒ばかり飲んで、さっぱり神様のご用をやらない人がありました。ところが、布教所の敷地の土盛りに莫大な土が必要となった時、その人が一手に引き受けてくれたのでした。
神様は、あんな者こんな者と言ってくれるな、とおっしゃっています。本当に一生に一度だけ役立つという人もあるかもしれないのです。その人を駄目にしておいたら、その大事な一度も駄目にしてしまいます。その人だけでなく、自分もまた駄目になったりします。映り返るが天の理ですから。
胃腸に故障のある人は、うなぎのような融通無碍の心になればよいのですが、ともすると几帳面で、神経質で、短気だったりします。腹は原でなければいけないのでしょう。大海原のような心になるべきなのでしょうね。清濁併わせ呑む大きさが必要なのでしょうね。潔癖も良いのですが、過ぎると病的になり、ノイローゼになったりします。「水清ければ魚住まず」となっては困るわけです。
人をくさしたり、責めたり、欠点を拾ったりしていると、自分がごみ箱になってしまいます。自分自身が捨てられる日が来ます。自分のほこりがいっぱいな上に、人のいんねんまでもらって加わるので、早く積もってしまいます。人の罪まで引き受けて、私がごみ箱になって周囲をきれいにさせていただきます、という場合のごみ箱なら、これは必要なごみ箱で、なくてはならぬ大事なものですが。
一切が心一つで、良く受け取る人は良くなっていくし、悪く受け取る人は悪くなっていきます。自分を悪者にして相手を救ってあげる人もあれば、自分の悪まで人になすりつける人もあります。けれども、心の種のまきようで、いずれ表に出てまいります。
種は正直で、心の種通りに、形になってはっきりと現れてくるものです。一分一厘の違いもないし、年月たつほど利子をつけて、大きくなって出てきます。良いことでも悪いことでも、どちらもそうですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)