おさしづ配信

道という理は末代の理

おさしづ配信

どんな事ありてもこんな事ありても、道という理は末代の理なれば楽しみが無くてはならん。道一代と思うや頼り無い。これから道一つ理頼り定めて居れば、難儀しょにも出来やせん、不自由しょうにも出来やせん。(明治34年6月25日)

親神様は、ありがたいことに、どこまでも人間をたすけたいばかりの心でおられる。その心を「親心」と表現する。私たちは、その親心に凭れて、あるいはその導きを得て歩んでいる。いいかえれば、どっぷりと親心に浸って(甘えて?)暮らしている、ということになろうか。
けれども、時として思わぬ出来事が起きて、どうすればいいか、また、なんでやろうと思うこともある。いわば「どうもいかんこうもいかんと思う」のである。
それに対して、「道の上に立ちたら、どうなりてもこうなりても」聞き分けていくことが大切である、といわれる。親神様の話に間違いはない。なれども「心に一つ取り損いありてはどうもならん」のである。
それには、どこまでも親心に凭れきることがなければならない。そこにこそ「道という理は末代の理」があるのであって、楽しみもまた見えてくるのである、といわれる。
一代限りと思ってしまえば、こんなこと何になるのかなあ、どんな意味があるのかと、なんだか頼りないことのように思える。しかし、その中を、人間たすけたいという親心に凭れて通っていけば、いうならば親神様を頼りに理を見つめて代を重ねていけば、「難儀しょにも出来やせん、不自由しょうにも出来やせん」と仰せられる。日々にどんなことがあっても、この点をしっかり心に治めて通ることが大事である。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)