一寸には怖いようなものや。なれど、何にも案じる事は更に無いで。大き川越そと思えば、大きい心持たにゃ越せん。(明治23・8・7)
越せるか越せないか確信を持てない川を越そうと思ったら、ちょっと怖いのは当然です。落ちたら大変だと考えたら、怖いはずです。
自分の力だけに頼って越そうとしたら、力のない者は心配になります。けれども、神様にもたれ、足りないところは足していただけるはずだと信じられるだけの根拠があれば、すなわち過去より今日まで神一条につとめ切った、こうのうの理があれば、必ずや神様は足してくださるという自信が湧いてくるものです。
小さな自分が大きな神様と一つになれば、大きくなれます。神様と一心同体とまでいかなくても、完全にもたれ切ったら、大きくなれます。
神様にお働きいただいていることが一番よく分かるのは、何といってもおたすけです。おさづけ取り次ぎです。おさづけを通して、はっきりと神様にお働きいただけます。
成るも神成らんも神、と仰せになっています。そのどちらも体験して、違いがだんだんはっきりしていくものです。
やがて、身上だけでなく、あらゆる一切に、神様のお働きをひしひしと感じられるようになります。そうなるためにも、まずおさづけを取り次ぐことです。おさづけの取り次ぎを通して、だんだんと神様と一心同体へ近づくことができ、大きな心になることができ、大きな川も恐れず越すことができるようになります。
小さな私を捨てて、大きな神様のお心に飛び込むのです。それでこそ、大きな心になることができます。私を捨てれば、神様が入り込んでくださるのです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)