おさしづ配信

暗がりの道が見えてあるから

おさしづ配信

知らず/\の道、分からず/\の道、みす/\の道ある。これ三つ出掛けたらどうもならん。盛ん程めん/\心を静めて掛かるから盛んという。心の理があれば勝手の道という。勝手の道は盛んとは言えようまい。暗がりの道が見えてあるから、諭さにゃならん。(明治24年7月24日)

私たちは、おやさまがお教えくだされたこの道を通らせていただいているが、その通り方を考えるとき、次の三つの道はどうもならん、と仰せになっている。
その一つは、知らず知らずの道である。知らないがゆえに誤りを犯す場合もある。けれども、ある意味では無邪気なところがあって、「知らん間はほのかのもの」ともいわれる。ただし、誤った道を歩むということは事実である。
分からず分からずの道とは、こうだと教えてもらっていても、そのことの意味が分からずに通ってしまうことである。親神様は「これまで道を通し、どんな中も連れて通りた」といわれるが、これは、この道がいままでにない、前人未踏の道であるから、親神様が連れて通ってくださったのである。分からん間は、親神様の話も聞き分けることができず、「ざわ/\して居る」ようなものであるが、「だん/\道を通りたら、あら/\分かりてある」といわれる。
みすみすの道とは、分かっているのに、それを通らないことである。親神様がこうだと教えてくださり、その意味も分かっているのに、みすみす違う道 ― 暗がりの道を通ることをいわれる。
人間には心があるので、ついついわが身の思いを立てて通ることもある。しかし、それは勝手の道であるといわれる。このまま勝手の道を行けば、「暗がりの道が見えてあるから、諭さにゃならん」と仰せになるのである。神一条の道を忘れず、明るく勇んで通らせていただこう。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)