おさしづ配信

外の道は通れん

おさしづ配信

「めんめん真実誠一つの理を立て、艱難の道も忘れてはどうもならん。世上明るい道でも何時暗がりとも分からん。これまでの道を忘れぬよう。忘れさえせにゃよう/\の道は許してある。神一条より外の道は通れようまい。一度は通る、二度は通る、三度は無理に通る。神一条さしづより外の道を通る者は分けて了え。」(明治24・7・23)

今結構に通れている人も、いつ暗がりに入るか分かりません。一度は親の慈悲でたすける、二度目はおたすけ人の真実でたすける、三度目は難しい、というようなお言葉もあるらしいのですが、ここでは、お道を耳にしながらお道をやらずに社会を通る人は、三度目は無理しないと通れなくなる、とおっしゃっています。
神様は、世界中一人も余さずたすけたい、とおっしゃっています。親は子供が何人あっても、一人も残さずたすけたいのは当然ですね。
お道が耳に入ったら、これで行くしか道はないのです。このお道こそ、世界と人間をお創りくださった親神様のつけてくださっている道であり、だからこそ、おさづけで医者の手離れもいくらでもたすかるし、愛町の初代会長様のような不思議な人も出てきたのです。
最後の、「神一条さしづより外の道を通る者は分けて了え」のお言葉は、なかなか厳しいですね。道の邪魔になる木は取り払え、というようなお言葉もありましたが、軽くできませんね。やっぱり、世界中の一人も余さずたすけたい親心をどうしても受けてくれぬ人は、その他をたすけるために、分けられるほかないのでしょうね。反対する者もかわいい我が子、ともおっしゃっいますが、ここでは、たすけたいが故に厳しくおっしゃってくださっているのですね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)