石の上に種を置く、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾うて了う。生えやせん。心から真実蒔いた種は埋ってある。鍬で掘り返やしても、そこで生えんや外で生える。どんな事も濃い、浅い、甘い、これをよう聞き分けてくれ。(明治23・9・30)
世の中には頑固一徹の人もいます。石みたいなものです。そんな人へもお話しせねばいけません。
岩だけの島で、風が強い所でも、松が生えています。よく育つものです。それを考えたら、岩のような人にも道がつくと思えるでしょうね。
真実誠の種は、土がかぶさっていて見えないものです。その種は、たとえ鍬で掘り返されても、必ず生えて芽を出すとおっしゃっています。人の目につくようにやる人もありますが、そんなのは種をお日様に当てるようなので、芽は出ません。枯れてしまいます。
麹町大教会の久保治三郎会長様は、愛町の初代会長様を仕込まれたお方ですが、昔は交通が不便な時代で、東京からのおぢば帰りの途中、名古屋に降りて旅館を取ったものでした。治三郎会長様は、「わしが足を踏み込んだ所には道がつくよ」とおっしゃっていましたが、本当に名古屋に、愛町の道がついたのでした。愛町の初代会長様もまた、その精神でお通りくださったのでした。僕もまた、そう信じてやってきました。そしてそのとおりになっております。
この道は人間がつける道でなく、親神様が人間を通じてつけてくださっているのですから、必ず足を踏み入れたところには道がつくものなのです。おたすけ人の心の成人に応じて、ちゃんとついてくるのです。
その子の代、孫の代でやっとつく場合もあります。神様は実に気が長いのですね。生まれかわらせてからも、つけてくださるのです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)