おさしづ配信

裏の道は誠の道

おさしづ配信

さあ/\神一条の道は、表と裏とある。裏の道は誠の道、一つさあ/\日々に運ぶ処は、誠というは通り難くいものである。蔭の道は難しい道、表の道は通りよい。世界の道は通り、通り難くい神の道は内、表と裏との道である。内に運ぶ人が少のうてならん。(明治21年5月21日)

人というものは、誰しも自分を善く見てほしいと思う。褒めてもらって悪い気がする、ということはまずない。それがお世辞であると分かっていても、である。
耳に心地よく響く。それだけに、目に見えて分かる表で働こうとする。人目につかない陰のつとめは疎かになりがちである。
神の道においても、往々にして同じことがある。それを表と裏の道、といわれるのである。善く思われたい、いかにもしているぞ、というのは表の道である。目立たないように、ひっそりと誠の心を尽くしていくのが裏の道、と仰せになる。
この誠の道は、通りにくい道である。なぜか。それは、人は皆、わが身が可愛いからである。けれども、目立たない陰の道、この通りにくい神の道を、「内」ともいわれる。その「内に運ぶ人が少のうてならん」とのお話である。
たとえていえば、教会へのつとめは、内のつとめである。内に運ぶことはなかなか難しい。目立たないし、あまり日常的すぎて、ややもすると、何をしているのか、それすら分からなくなってしまうこともある。
月次祭に、にをいがけに、ひのきしんにと、教会に帰らせていただく。世上から見れば、何のことか分からず、それを評価してくれる人は社会にはいない。かえって、うさんくさく思われるくらいである。けれども、帰りにくい中、自分の時間を削ること、それが誠の心を運ぶということである。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)