おさしづ配信

難儀不自由の道を通りて

おさしづ配信

真実一つで難儀不自由の道を通りて、今日の日という。もうこれ長らえての道を通りて、艱難の道を知らずして、あんな阿呆らしい事は措いたらよいという。こうしたら勝手が良い。こうやれば良いと思えど、天の理でいかん。治まらんで。……皆んな心を合せてすればいかんやない。(明治22年9月16日)

ものごとを進めていく場合、いろいろな意見が飛び交う。そんな、あほらしいことをせずに、こうしたらよい、ああすればよいのに、と思うこともある。
けれども、そうした意見も、親神様がご覧になられたとき、どうであるか。人間的な都合、目先のことばかりにとらわれた考えは、どうしてもあさはかなことが多く、治まるものも治まらない。
まず、この道がどうして成ってきたかという元を知ることが肝要である。何もない中、真実一つで、つまり、どこまでもおやさまの声を信じて、そのままに歩んできた道があればこそ、今日の日があることを忘れてはならない。
それは、ほんとうに難儀な、不自由な道中であった。もちろん、物がないという不自由もさることながら、親神様のお心を伝えることの難しさ、困難さである。親神様のお心は、ただただ人間可愛い、人間たすけたいというお心であるにもかかわらず、それをなかなか分かろうとしない人たちを相手に、お通りくだされた。そういう元一日の日がある。
そのことを心において、みんなの心を合わせていけば、どのようなことも成ってくる、との仰せである。それが神の守護なのである。
教会にも元一つの道がある。成らん道中もあった。この点を心において、日々を通らせていただこう。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)