結構に暮されるを、この道のため苦労艱難不自由艱難さした事もある。(明治31年8月26日)
おやさまが神のやしろとなられて、まず最初になされた事柄は、貧しい人々に施しをされて、貧に落ちきられたことである。
このお言葉は、そうした道中を、おやさまと共にお通りくだされたお二人、すなわち秀司先生と、「若い神」とまで慕われたこかん様のことを指していわれたものである。
中山家は地持ちとして唄われた庄屋であり、本来なら何不自由なく暮らすことができたはずであった。けれども、母親であるおやさまが神のやしろとなられたがゆえに、秀司先生とこかん様も、道のために苦労艱難の中をお通りになった。
道のための苦労ほど尊いものはなく、誠の中の誠であり、忘れてはならないことを仰せになっているのである。
秋祭りの日に、村の娘たちが着飾って楽しげに歩いているのに、こかん様は、一人寂しく道行く渡御を眺めておられた。
また、こかん様が「お母さん、もう、お米はありません」と言われたとき、おやさまが「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と諭された話は有名である。
信仰の道を歩んでいくうえでの苦労は誠の道、魂に徳をつける道である。親神様のご守護をしっかりと味わわせていただくとともに、道のうえの苦労を楽しんで通らせていただこう。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)
