空を思わん者は無い。空ばかり見ては踏み損う。旬という道という理がありて、空という。(明治32年2月2日)
朝、目覚める。外を眺めてお天気を見る。今日は快晴だなと思うと、なんだかうきうきとしてくる。雨は雨で、これで作物が十分に潤うなと思えば、これまた嬉しい気持ちになる。日中であれば、青空に新鮮な感動を覚えたりする。
一方、月のはたらきを見る人は少ない。けれども、満月の日にとったカニには身があまり入っていない。また、山仕事における木の切り出しも、「闇切り」といって、旧暦の一日、新月の日に切り出すと、その木は強く、加えてカビがはえないといわれる。しかも、この木を使った建物で、シックハウス症候群(化学物質過敏症)が治ったという実験結果も出ているという。
こうしてみると、月と日のはたらきは対照的であるとともに、その二つのはたらきが一つになるとき、最高のものが生まれてくる。
いま、都会に季節がない、という人がいる。いつでもイチゴやスイカ、トマトなど、いろいろなものを食することができる。こうした暮らしの中では、季節感はあいまいになり、ついには季節、旬というものがおざなりになりがちである。
人が生きていくときも同じく、いろいろな旬がめぐってくる。けれども、自らの旬を感じたり、つかまえることは難しい。ややもすると、自らの都合ばかりを思っていると、肝心の旬を忘れてしまうことにもなりかねない。
ほかのことに気をとられて、種を蒔く旬に遅れて作物の収穫ができなくなるに等しい。そこに一切の言い訳はできない。
こうしたことを「空ばかり見ては踏み損う」といわれる。旬は「道という理」であり、神の時間であり、神が定められる。それに沿うていく者だけが、大いなる収穫を得るのである。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)
