おさしづ配信

一つの理を治めて居れば

おさしづ配信

中山眞之亮・初代真柱様は教祖の外孫で、教祖はご誕生の前から「しんばしらの眞之亮やで」と予言されていました。幼いころから教祖のもとに通われ、明治十三年(一八八〇)、一五歳で中山家の人となり、明治二十年、教祖がお姿を隠されてからは、名実ともに道の真柱として立たれ、道の行く手を一身に背負われて大変なご苦労をされました。
ある教会長が事情で苦労していた時、「お前は何べん泣いたか。私は千べん泣いた。お前も百ぺんぐらい泣いて数日苦労すれば、角がとれて男になれるぞ」と励まされたそうです。

「これは道が一つの理を治めて居れば、どんな難しい道でも通すで。さあさあ前々の身上から刻限の事情。理を合わせ道も楽しみ、理を治めるなら身は直ぐと治まる。」(明治23・9・1)

かつては真柱を管長とも教長とも申し上げたようですが、これは初代真柱様が二十五歳の青年の時に預かれたおさしづです。
大ぜいの人の心を一つに治めるのは、なかなか難しいものです。まして年若く、周りが年長の人ばかりだとすれば、なおさらでしょう。時には迷いが生じ、案じる心が生まれ、胸につかえることもあるでしょう。
神一条に理を立てて歩んでいくにも、トップの立場になれば、自分で行き先の方向を定めねばならず、まして、だれも教えてくれません。そこで、おさしづを頂けるありがたさは、大きなものがあっただろうと推察いたします。
一手一つに心を治めることは、どんなご守護も頂ける元になるのですから、大切なことですね。(渡部与次郎、「おさしづに学ぶ-朝席のお話」、天理教道友社)