おさしづ配信

旬来れば花が咲く

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治まり難くい理も、日柄々々心得のためまで諭し置く。身上第一案じる事は要らん。案じる理は案じの理を拵え、案じるように理を拵え、気がいずむ。一つ大き理を定め。旬来れば花が咲く。(明治25年5月1日)

ものごとが順調に進んでいるとき、おそらくありがたいばかりで、特別にああだこうだと考えたりすることは少ない。けれども、病気になったり逆境になったとき、いろいろと考える。このまま会社を休んでいると、代わりの人が自分の仕事をきちんと消化しているとすれば、復帰しても、もう居場所はないのではないか。どうなるのか。残された家族はどうするだろう、等々。あらぬ妄想におそわれたりする。
うっかりしていると、こうした悲観的な考えに、支配されることにもなりかねない。つまり、案じる心である。ところが、それは、案じたようになる元を拵えるようなものだ、といわれる。そして、心がいずんでいるのであると。
いろいろと理の思案をすることは、非常に大事である。それがなければ親神様の思いに近づけない。が、それにとらわれるあまり、心をいずませ、前に進む一歩が 踏み出せないとすれば、どうにもならない。
この状況を越えていくには、まず大きい理を定めることである。大きい理とは、姿形の大きさを指すとも考えられるが、それだけにとどまらない。それらを支え、包み込む、より大きな理は、より根源へと近づいていくあり方にこそある。
いうならば、人間の元、世界の元からの思案が大切なのである。ややもすると、目先のことだけの思案に埋没してしまって、大きな親神様のご守護の世界に生かされ、生きていることを忘れがちになる。そうしたことを「旬来れば花が咲く」という言葉で、人間世界の根源への眼差しを促されるのである。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)