満足は心の理、優しき者は日々満足。満足は小さいものでも、世上大き理に成る。これより大き理は無い。満足広く通り、不足はあちら縮める、こちら狭ばむ。時によれば取れて退く。満足というものは、あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適う。適うから盛ん。(明治33年7月14日)
満足とは、その字が示すように、満ち足りることである。人間、求めることが満ち足りると、それ以上の進歩がない、ともいわれる。なるほど、そうには違いない。問題は、自らの思いにこだわり、それを他者に求めすぎる場合にある。 求めすぎるところ、他者への不足が出てくる。満足できなくなる。
こうした場合、親神様は、ともかく満足してやれ、とおっしゃる。まず、どんなことも満足していくことである。自らの満足をもって、人に満足の心を与える。すなわち、「満足というものは、あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適う。適うから盛ん」といわれるのである。
料理を出される。おいしい、おいしいと言って、満足の言葉を発する。もてなした人は、その言葉にまた満足する。満足の道が広がっていく。それは、喜びの輪が広がることでもある。こうした姿は、おやさまのお心に適うことになる。だから、その輪はますます大きくなっていく。
さらには、人に満足を与え、しかも、それを自らの満足とすることである。人の喜びをわが喜びとする。 これが親の理であろう。 不足の心から生まれるのは争いである。ものごとを潰すことにもなる。
どんなときも満足という心をもって、事に当たることである。満足は人を生かす。そこに、親神様は勇まれる。陽気で豊かなご守護が、そこかしこに溢れてくる。 それは争いと無縁な、戦争とはほど遠い対極にある世界である。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)