元初まりの理を聞き分け。理を見よ。人間心で始めたのではない。拵えたのやない。誰に談じてしたやない。今日は晴天、今日は雨かと、この理を分かれば、理は鮮やか分かる。(明治22年3月10日)
人間というものは、生まれてこのかた、どんな中も通ってきている。母親の胎内にいるときでさえ、それなりに道を通ってきている。 赤ちゃん自身は、ものを言わないから、何も思っていないように見えるが、そうではない。
また、大人になればなおのこと、どんな道も通ってきている。苦しいときや悲しいとき、また、つらいときもあった。でも、楽しいときもあったに違いない。こんなことも、あんなことも、みんな親神様の世界であることを心に治めていくことが肝心である。
この天理教という教えは、人間の悟りや考えから生まれてきたのではない。もともとの人間、世界のはじまりということを考えてみれば分かることである。
原初、この世は混沌としたどろ海であったと聞かせていただく。そんなところから、親神様は人間を拵えて、 その人間が陽気に明るく勇んで暮らすのを見て、ともに楽しもうとの思召から、ない人間ない世界をはじめかけてくだされたのである。
その創造のおはたらきと守護は、私たちの想像をはるかに超えたものがある。三度の宿し込みから八千八度の生まれかわり。そして、人間の成人とともに、海山、天地、日月が明らかとなり、九億九万年の水中の住まいを経て、知恵の仕込み六千年、さらに三千九百九十九年の文字の仕込みを頂戴して、今日の人間がある。
しかも、いまもなお守護してくださっているのである。だから、今日は晴天、今日は雨かと、どんな日も親神様のご守護として、日々を喜んで通らせていただくことが、何よりも大切なことである。親神様が人間に陽気ぐらしをさせたいとのうえから、どんなことも見せてくださるのである。ありがたいことである。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)