おさしづ配信

心定めは末代

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最初元々と一つ定めた心は、末代、途中でこれではと言うようでは、定めたとは言えようまい。…長い間の年間の中、ならん/\の道を通り、よう/\の日という。さあ、第一元という、この一つの理を忘れんよう、しっかり定め。(明治30・10・31)

「さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」(明治20・1・13)という有名なおさしづがあります。
親神様があってこの世界があり、世界があって森羅万象があり、森羅万象があってこそ人間ができ、人間があって法律ができた。だから、人間が作った法律よりも、神一条の心定めが大事なのですね。
元一日は大事ですね。「元々一つ定めた心は末代」とあります。これは、どこまでも定めた心を、出直しても出直しても、生まれかわって来世、再来世にも守りきっていく、という意味にも取れるし、子供から孫へと何代続いても、どこまでも、という意味にも取れます。どちらも大事ですね。
途中で変えたくなるのは、いんねんという悪魔の誘惑でもありましょう。だから、親神様・教祖に足りないところを足していただいて、どうでもこうでも守り抜いていくという心が必要ですね。
ある足の不自由な人がいました。おたすけしかたすかる道はないと教えられたのですが、一番近くの家でさえ、その足では半日かかっても着けない距離でした。しかし、途中で引き返しても神様はその心を受け取ってくださると聞いて、乳母車につかまりながら、歩いて行っては途中で帰るということを、毎日繰り返していました。
それを始めて数ヶ月たつと、かなり近くまで行けるようになりました。そしてある日突然、乳母車なしでもちゃんと歩けるようになったのでした。まだその家へ届かないのに、ご守護頂いたのでした。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)