おさしづ配信

修理肥

おさしづ配信

修理肥は何処までもせにゃならん。蒔き流しでは、何も取れるものやない。(明治35年7月13日)

「修理肥」とは、もともと、お百姓さんが使われていた言葉である。
作物を育てるうえで、ただ種さえ蒔いておけばよい、というわけではない。そこには修理肥が必要とされる。
作物の収穫に至るまでには、水やりから草取り、追い肥など、いろいろな手間を必要とする。それをおざなりにしておくと、作物はたいして成長もせず、いびつなものができたりする。また、虫に喰われたり、枯れたりすることになってしまう。「田畑の肥は、その田畑に足を運ぶこと」といわれるのは、こうしたことを物語る。いうならば、どれだけ田や畑に足を運んだかによって、作物のなり具合が違ってくる、ということである。
人を育てるのも同じことである。日々に心を掛けていくところに育つ。これは、すでによく知られた話であるが、同じ環境のもとで、同じ肥料、水を与えるとして、片方には悪口を言ったり、無視したりした作物と、もう一方は褒め言葉を掛けて、早く大きくなれよと言って育てた作物を比較してみると、ずいぶんと違いが出てくるといわれる。後者のほうが、形も味もよく育つのである。
もちろん人の場合、ただ褒め続ければよいというわけにはいかず、時として厳しいことも言わなくてはならない。けれども大事なことは、どこまでも愛情をもって褒め、叱るということでなければならない。その、褒め、叱るタイミングは、日々に心を掛けるところに見えてくるのである。
それは「日々」ということの大切さを教えてくれるものであろう。
日々とは、簡単なようで難しい。日々に教会へ足を運ぶことの大切さは、ここにある。それが私たちの信仰の修理肥になる。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)