おさしづ配信

一年の内には

おさしづ配信

さあ/\/\一年の内にもそれ鬼も見る、喜びもある。これを所々にも理を諭してくれねばならん。内にも理を治め。国所々にも理を治めにゃならん。(明治21・12・26)

『清水与之助とその妻』というお道の劇映画は、皆さんもご覧になってよくお分かりと思います。この方は、義侠心に富み、凝り性で、先駆者的魂の持ち主で、激動の時代にあって、天下のため何をなすべきかを以前から考えていたので、お道に入信するやその天性が花開いた感じですね。
お兄さんの足腰立たぬ病気からお道のにをいがかかりました。三日三晩のお願いでご守護がなかったことから、おたすけ人に、与之助夫婦の心が一つになっていないこと、特に妻のおはるさんが、こんなことぐらいでたすかるのかしらと疑ったのではないかと言われました。おはるさんは、そのとおりであったのでびっくりして、平謝りに謝って、「これからそんな心は使いませんから、なにとぞお許しください」と、泣かんばかりにお詫びしたところ、お兄さんは独りで立ち上がったのでした。
それから与之助先生の熱心な信仰が始まったのでした。一途な人ですから、道はどんどん開けていったのですが、身上を頂いては心を改めながら、だんだんと成人させていただいたのでした。
このおさしづは、一年という時間の框の中だけでなく、地域の中にも当てはまるのであり、与之助先生を通して、広く人類全体にも呼びかけてくださっています。
行動力のある人は、ともすればせっかちになり、短絡的にもとらえがちですが、このおさしづのような心になって、裏も表も見て、陰も日なたも、プラスもマイナスも見、過去も未来も眺め、また長期的展望のきく地点に心を置く必要があります。
明治二十一年のころは、国々所々にたすけ場所を急いでつくらねばならぬ情勢でもあったでしょうが、与之助先生のような人は、急いではいかんと、身上で教えていただくほかないのでしょうね。
つとめようとすると邪魔が入る。運ぼうとすると都合が悪くなる。そうすると、つい負けてしまい、不足しますが、良いが悪いか、悪いが良いか分からないので、どんな邪魔も決して悪く取らず、成ってくるのが天の理と上手に受け取り、前生過去の通り返しと思い、私にとってはそのほうが良いからそうしてくださったのだ、私に都合が悪くても、それがご守護なんだ、という受け取り方ができるようになることです。
神一条のことは、一度定めたら心の中では一歩も退かず、何度も挑戦し、心倒さず不足せぬことです。早くて良いか遅くて良いかも、成ってみないと分からないこともあります。
信仰とは進行であり、後退、後ろ戻りは信仰ではないのだと考え、できなくても心倒さず、何度でもやり直して、うまずたゆまず進もうと努力することなのでしょうね。神様は、その変わらぬ心を見定めて、やがて足りないところは足して下さるのです。
進めない時は立ち止まればよいのに、退いてしまう人があります。これでは脱落してしまいます。自分の思いどおりにならないと、へそを曲げて、むほんに走る人があります。明智光秀のような結果になるので損ですね。
人間は良い時でも有頂天にならぬよう、しばらく立ち止まってみる必要があるものです。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)