あちら一つ身が障る。こちら一つ身が障る。心に重々思う。早く十分洗い取れ/\。…これより洗い取りて、こうと一時の心治まれば、何かの心明らか。一つ旬々一時、又々旬々の理を以て治まる/\。感じる事は要らん。(明治22・11・30)
「洗い取れ」とは、第一には案じ心を取れということかもしれません。腹のお手入れは、しっかり腹を定めよという場合が多いですね。愛町の初代会長様は、よく「胸でふっと思い、頭で考えて、腹で決めるんだよ」とおっしゃいました。
神様にもたれ切る腹が定まらないから、先案じもし、人間心も湧いてくるのでしょうね。神様がふっと浮かばせてくださったら、それを人間考えでゆがめてはいけないのですね。
昔から、物言わぬは腹ふくるる元、と言われました。物言えば唇寒し秋の風、憎まれたり恨まれたりするよりは黙っていよう、となりやすいものです。でも、結局は満足できないので、たまってくると腹の差し込みにも至るでしょう。
だから、吐き出してしまえばさっぱりすることになります。洗い取るのは、吐き出した後かもしれませんね。
病気のおかげで前生、過去、未来にわたっていろいろ悟らせていただけ、心の成人を遂げることのできるのは、お道しかないのかもしれませんね。単なる対症療法の、その場しのぎの治し方でなく、真の根本原因を見つけ、それをなくし、あるいは切り替えて、
やまひのすつきりねはぬける
こヽろハだん/\いさみくる (みかぐらうた 四下り目八ツ)
となっていくのも、お道しかないのではと思われます。
心療医学の発達とともに、「病の元は心から」であることは、だんだん明らかになってきました。心の手術をすることによって、体の手術をほとんどしなくてすむことができるのですね。ところが、体の手術よりも心の手術の方が、ずっと難しいのですね。
自分が病む代わりに、病む人のおたすけをさせていただいて、自分の病気だと思って真剣に取り組んで苦労させていただき、病むよりは結構と、その苦労を楽しむ心になれば、病むいんねんがあっても消えていくのです。
病むことによっていろいろ大事なことを教えていただけるので、本当にありがたいと喜べるようになれば、もう病む必要もなくなり、早く良くなります。そのおかげで道一条になることができたら、新天地が開けます。
ただ、仕方なしにでは駄目ですね。発想を一大転換して、喜び勇んでというのでなくては、神様に十分お受け取りいただけないでしょうね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)