おさしづ配信

今年で行かねば来年

おさしづ配信

教祖の高弟の一人に、増野正兵衛という人がいます。この方の息子さんは増野鼓雪と号した人で、一時期全天理教の期待を担った俊才でしたが、惜しくも夭逝しました。

今年で行かねば来年。この事情以てだん/\という。今年という仕切りた事はどうもならん。何か万事年限、一つは天然という。成るよう/\は天然という。(明治24・8・19)

これは明治24年の八月十九日、「増野正兵衛三日前より腹下り夜分夜通し下り、しぼり腹に付願い」に対するおさしづです。明治二十年陰暦七月の「清水与之助絞り腹の願」に対するおさしづは、これとは正反対で、たすけ一条の道の理を腹にしっかり治めて実行することを、激しく急き込まれています。
たいていの場合、わが身わが家の事はあせってはならん、今年でいかんなら来年という心で通れ、となっています。反対、神一条の事は、一日の遅れは千日の遅れにも匹敵するから、すみやかに急げ、という急き込みの場合が多いですね。
急いて急かん道、というのがすなわちそれである、ということになります。ですから、このおさしづでは、わが身わが家のことにかかわる内容だったので、急くな、とお仕込みくださったのであり、清水与之助先生に対するおさしづは、神一条のことであったから激しく急き込まれた、と考えることができます。
どんなことも、わが身わが家のことは特に急いてはいけないので、信仰の年限とともに天然自然に分かってくるから、無理のない通り方をして、成ってくるのが天の理と心得て、決してあせってはいけない、とお諭しくださったのだと思います。
この世と人間をお創りくださって、今もなおご守護くださっている親神様なのだから、寄らば大樹の陰とも思い、神様にもたれ切って通る心になると、あせったり、無理したりする心は失せるものだと思います。
思うとおりに成ってもよし、成らんでもよし、というような、もたれ切った心、そんな心になれば、腹痛にはならないでしょうね。(渡部与次郎、「続おさしづに学ぶ – 朝席のお話」、天理教道友社)